200年前の「諸国の台所」の大坂料理

 200年前の「諸国の台所」の大坂料理

210年前の大坂船場。船場の町人たちが、お客さまを接待した。カメラもスマホがなかった200年前、どんな料理だったか、映像は残っていない。どんな味だったかは分からない。献立から想像するしかない。

文化10年(1813年)の大阪・船場。薬種問屋が集まる道修町3丁目の会所で、長崎奉行手附を大坂商人が本膳料理で接待した。大阪くらしの今昔館の谷直樹前館長に「道修町3丁目文書」を大阪くらしの今昔館の谷直樹前館長に読み解き、伏見町栫山の栫山一希店主に、その料理を再現してもらった

一品ごとに並べる現代の懐石(会席)料理と違い、本膳料理は「5つの膳」を一度に出す。圧巻である。すべてを食べる訳ではない。食べるのは「参(三)の膳」までで、鯛の姿焼きの「与(四)の膳」と菓子の「五の膳」は持ち帰り用だった、家に持ち帰り、家人や店の者が食べたのだろう



本膳料理は武家の儀礼料理。型や決めごとがある。たとえば、こう。飯茶碗を持ち、一口食べ、つづいて汁椀を飲む、また飯茶碗を持ち…という手順を3度繰り返す。飯は一口残す。茶漬けにして香の物とともに食べる。移り箸や食事中は会話しないなど、料理の作法には、日本ならではの奇数の様式美学も貫かれている

神饌(しんせん)料理や奈良・平安時代の宮廷の大饗料理につづき、これらに禅宗の精進料理が混ざりあった。公家儀式の神饌料理と精進料理が結合して、武家の「本膳料理」と茶席の「懐石料理」が生まれた。自然の恵みである旬の食材を感謝の心でいただく、「熱いものは熱く、冷たいものは冷たくいただく」という料理美学は、人々の心に響き、現代に日本の料理の本質は受け継がれている

江戸時代の大坂に全国から商談・観光客が集まり、日本有数の商業・観光都市であった。同時に、全国の食材や物産が市場に集める「諸国の台所」でもあった。海に近い江戸は「割」(切る)料理、内陸の京都の「烹」(煮る)料理に対して、海にも陸にも近かった大坂では「割」「烹」料理が生まれた。三都市、調達できる食材を活かした料理が洗練されていく

この大坂船場では、新鮮で旬の豊富な食材を使い、甘すぎず辛すぎという「浪華(なにわ)の食い味」が生み出され、200年前の大坂の料理人から大坂料理の本質を受け継ぎ、100年先200年先の料理人に承継できる料理を、伏見町栫山で創造していただきたい

                   (社会文化研究家 池永寛明)

船場で企業人として40年間勤務したあと、社会文化研究家として、ビジネス文化、大阪の風土と文化、食文化を研究し、note日経COMEMOキーオピニオンリーダーとして、https://note.com/hiroaki_1959/などで、情報発信中