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陰陽融合—萌芽していく癸卯年、伏見町栫山をよろしくお願いいたします

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  朝の朝陽と夕の夕陽は、 1 年 365 日、同じ景色はない 夜のしじまの朝陽が湖上と山崚を刻々と変えるグラデーションの夜明けの空も、昼の喧騒から水平線に夕陽が落ちていくなか都市を照り輝かせる空も、一日たりとも同じ情景はない。月から太陽に入れ替わる、太陽から月に入れ替わる瞬間は毎日つづく。陰陽融合という 「陰陽融合」は、中国の易経の言葉。太陽が陽であれば、月は陰。集中が陽であれば、分散は陰。リアルが陽であれば、オンラインは陰。陰陽は昼と夜の間に線が引かれていないように、対立しているようでありながら、融合しあって、決して離れない。陽は陰があってこそ、陰は陽があってこそ、ひとつとなる 陰陽融合は、物事そのもの。陰と陽は常に変化して、たがいに増えたり減ったり(此生彼長)、たがいに競争しながら成長する(相生相長)。どちらかが選択されるのではなく、どちらも存在して、互いが成長していく 伏見町栫山は、この陰陽融合の料理を心がける。一日たりとも同じ料理はない。陰の食材と陽の食材、季節の食材を融合させて、旬の食材を融合させて、一日一日と、洗練しつづけている 新たな年の始まりを迎えるお節料理は、1300年前の奈良時代に、中国から伝来された節の節目を祝う「節」の文化にもとづく、宮中の宴の「節会(せつえ)」のお祝料理「節供(せちえ)」が起源。日本人は季節の節目ごとの行事を大事にして料理で祝ってきた。そのなかでも新年を祝う節句、お正月の料理「御節供(おせつく)」が広がるなか、略して「おせち」と呼ばれるようになり、正月を祝う料理となった 2023年の干支は、「癸卯(みずのと・う)」。干支は中国の「陰陽五行思想」を礎にした 60 年周期で循環する暦で、「癸卯」は寒気が緩み、萌芽していく年。コロナ禍が3年間が過ぎ、新たな時代が始まりの年 伏見町栫山、日本料理かこみも、「癸卯」のはじまりの正月を祝う、縁起物を盛り込んだおせち料理をつくらせていただきました 次の時代にむけて萌芽していく癸卯年、伏見町栫山、日本料理かこみをよろしくお願いいたします

なにわの喰い味

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丹波黒豆シャンパン流し   京の着倒れ、江戸の吞み倒れ、大坂の食い倒れ 江戸時代、三都はそう呼ばれていた。大坂はもっと違う貌があった。大坂は万華鏡のような都市だった。水の都、商都大坂、天下の台所、芸術の都市、学問の都市、観光の都市、美食都市…。有名な言葉がある 「天下の貨(たから)七分は浪華にあり、 浪華の貨(たから)七分は船中にあり」 江戸時代の日本の富の7割が大坂にあり、大坂の富の7割は船のなかにあった…江戸後期の儒家である広瀬旭荘が「九桂草堂随筆」に書いた、江戸時代の大坂を象徴する言葉 出船千艘 入船千艘 という言葉も有名だった。江戸時代に河村瑞賢が西回り航路を開拓した。蝦夷地から日本海の東北・北陸・山陰の湊を経て、瀬戸内海から中・四国を通って、大坂をつなぐ物流の大動脈を構築した。北前船が海上を走って、多くの寄港地をつなぎ、物々交換する諸国物産回しをした 大坂への上り船。各藩の米が大坂にはこばれ、大坂で取引され換金された。米だけが運ばれたのではない。干しニシン、干し数の子、ニシン・イワシしめかす、塩ザケ、昆布、干しナマコ、干しアワビ、干しホタテ貝、材木、菜種、各地産品など、諸藩の産品が大坂に集められ、市がたった。堂島の米市、天満の青物市、雑喉場の魚市にヒト、モノが集められた。 1730 年に開設された堂島米会所では、世界初の先物取引がおこなわれた 半生かに刺し 大坂からの諸国への帰り船には、畿内の商品、酒、しょうゆ、塩、砂糖、木綿、衣類、なべ、かま、紙、薬、道具類、陶器、人形、化粧品、なわ・むしろなどを詰め込みれて、諸国に運ばれた この物流ネットワークが、「天下の台所」大坂をつくりあげた。商業都市大坂にとって、商談の場はなによりも重要だった。料理を食べながらの商談。大坂の商いは、人と人との信用にもとづいた口約束が多く、商談は商店のなかだけでなく、茶屋や料理店で食をともにしながら、まとまれば、手打ちとなった。手打ち酒をかわした。食による接待は、大坂の商いにとって重要な機能だった 江戸時代の三都に、人、物が集まった。トラックも冷蔵・冷凍庫もガス・電気の調理器具も、保管技術もなかった江戸時代は、集められる食材のちがいが、地域ごとの食を変えた 焼きガニ 江戸は海に近かったので「割」が中心、京は内陸なので「烹」中心。天下の台所として食材が

世界一の長い光りの通り・御堂筋

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「江戸はロンドン、京都はローマ、大坂はパリ」 と語ったのが、150年前の幕末の日本に来た英国の外交官。徳川将軍がいる政治都市・江戸と、天皇がおられる都・京都。大坂は日本最大の商業都市・天下の台所で、演劇や美食を楽しむ日本の遊び場だと   日本列島の中央に位置する大坂は古代に日本最古の本格的都・難波宮が置かれ、ヒト・モノ・コト・情報が集まり、混ざり合い、新たな文化を生み出す変換機能が冴えていた。その大坂に、天才都市デザイナー豊臣秀吉が登場する   大坂の湊と琵琶湖をつなぐ淀川をつなぐ要衝に、大坂城を中心とした都市をデザインし、掘を開削し、縦横無尽の商業都市をつくった。その堀から生まれたお菓子もある。いわく、秀吉時代の運河工事で、大きな岩が出た。「大坂の掘りおこし 岩おこし」という洒落から、「岩おこし」という名の菓子ができた。秀吉が今の大阪、大阪人の原形をつくったといっても過言ではない   大坂は万華鏡のようなまち 躍動的に、エネルギッシュで、チャレンジングで、時代 時代を捉えて進化しつづける都市だった 水の都、天下の台所、商業都市、工業都市、学問都市、観光都市、芸術都市、美食都市、商業都市、四天王寺や住吉社をはじめとする宗教都市だった。現在の大阪を代表するメインロード、大阪メトロの主線の御堂筋は、北御堂と南御堂をつないだ御堂筋に由来している。 その御堂筋の夜に、世界一長いイルミネーションが輝いている。伏見町栫山は、寒い冬を乗りきるための料理で、お客さまをお迎えします。 今月の料理から、二品。前菜は鮑と車海老に雲丹を、藁囲いにミヨミヨロウゲツツクの紙縒を掛け、つづいての品は奥丹波自然薯と根っこ芹のできたてお浸しの根芹と自然薯の摺流し。

見立てという日本料理の方法論

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  日本文化の本質のひとつに、見立てという方法論がある。 あるものを別のもので示すという表現法であり、元来、漢詩に学んだ和歌を詠む方法論として見立が高度に発達して、日本人の精神文化として刻まれていった 枯山水。自然の景観を砂と石で見立て表現する。白砂に描く砂紋の模様で、渦やさざ波を表現する 茶道の茶道具は、見立てで発達。京都桂川の漁師が魚をとるときに腰につけていた魚籠(びく)に見立てた「桂籠」と呼ばれる花入れ。「釣瓶水指(つるべみずさし)」は、井戸からくみあげ水屋にはこんで水差しとして使うものにして見立てた茶道具 日本料理も、季節の風景、花鳥風月、節句・旬の様々な生活行事を、器と料理で、表現する見立てが本質である   さて、大阪伏見町の日本料理栫山の料理。 お席につかれ、まず一口は、焼きたての栗で 新嘗祭を、赤飯で、祝っていただき 五感で、お浸しを味わっていただき 造をふたつ。まず造りの一品は蟹造り。二人目の造りは、九会をゆびき、紅葉おろしを見立てました ここで一休み。柿とブランデー梨の水菓子 冬の出会いものとして、蕪とあよ鯛のお椀 八寸は、秋風で吹き寄せられた紅葉の落ち葉を箕と料理で見立てました イルミネーションで映える冬の御堂筋に寄せて、白子ほう葉焼、一本の銀杏並木を見立てました お米からご飯に変わる一歩前の瞬間、瑞々しく甘く美しい煮えばな 大阪なんば葱の巾着餅で、寒い冬に温めていただきます 始末の心を込めた船場汁で、本日の料理を締めくくらせていただきました 冬の出会いものと見立ての日本料理栫山の物語でした                   (社会文化研究家 池永寛明) 船場で企業人として 40 年間勤務したあと、社会文化研究家として、ビジネス文化、大阪の風土と文化、食文化を研究し、 note 日経 COMEMO キーオピニオンリーダーとして、 https://note.com/hiroaki_1959/ などで、情報発信中  

お茶の話―11月はお茶の世界では正月

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  外国人は日本の家庭に、急須がないことに驚かれます 日本人は家で、お茶を飲まなくなりました。世界的な緑茶ブームで、日本から緑茶の輸出が増えているのに、その日本でお茶を飲むという生活が減りつつあります 「茶道」が中国人に人気です 中国から伝来して日本で長年にわたって洗練されてきた「茶道」を学ぶ中国の留学生が増えています。日本文化を体験する代表のひとつとして、建物、空間、茶道具、茶器、しつらい、所作、動作など全体を通じて、美しさ、綺麗さ、礼、もてなしなどの日本文化を学ばれています。一方、茶道を学ぶ日本の若者が減っています。 お茶は「温度」によって、味が変わります。 茶の葉ごとに入れるお湯の適温があり、「温度」管理がなによりも大切です。湯呑み茶碗に熱い湯を注ぎ、急須に茶葉をいれ、湯呑み茶碗にいれたお湯を急須にいれます。急須で蒸らしたお湯を湯呑み茶碗にいれて、均等な濃さにします。お茶は温度のグラデーションをコントロールして、飲まれる人のことを想って、最高の味をうみだします お茶は、熱いものでした 夏の冷蔵庫に冷やした「麦茶」以外、家ではつめたいお茶は飲みませんでした。 30 年前にペットボトルのお茶がコンビニに並びだしたとき、水のペットボトルと同じく、こんなものは売れるわけがないだろう、お茶は家で飲むものじゃないか、と思われました。そもそも家で飲む熱いお茶と、ペットボトルの冷えたお茶が同じ「お茶」だと思えなかったのです その前に、日本人はビールを冷やしはじめました 日本に入ってきた世界のビールは、冷えていませんでした。昔は冷蔵庫がなかったこともありますが、ビールは常温で飲むものでした。そのビールを日本人は、冷やして飲むようになりました。夏は暑いから、ラムネやサイダーを冷やすのと同じように、冷蔵庫が普及する前から、ビールを冷やして飲みだした。キーンと冷えたビールを飲むというスタイルが世界に広がりました。中国でも冷えたビールを飲むという人も増えていますが、それでも中国人の多くは冷たい飲み物は内臓を冷やすと、あまり飲まれません。「口にいれるものは、体温と同じくらいに」という中国医学の考えからです 日本では、そのビールに、お茶がつづきました 家で熱いお茶を飲んでいた日本人が、冷えたペットボトルのお茶を外で買って飲むようになりました。

秋風の料理「走り・旬・名残」

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大阪は「えべっさん」が好き          人形芝居えびす座の武地秀実さんのえびす舞い     1月10日の早朝、西宮神社の開門神事で境内参道200mを疾駆して、福男を選ぶニュースが全国に流れる。十日戎は、西宮、今宮戎、堀川戎、京都ゑびす神社などで開催される、この福笹の「十日戎=商売の神=えべっさん」は近畿で多いが、関東の商売繁盛は熊手の「酉の市」が多い 「えびす講」が、室町時代に生まれる。農民・漁師・商人のなかで、「五穀豊穣・大漁・商売繁盛」祈願の信仰として、えびす舞いとともに、広がる。えびす講の祭礼日として、旧暦の10月20日は百姓えびす、1月10日は商人えびすとして承継された   このえびす信仰を背景に、「誓文払い」という行事がうまれる。 江戸時代に、大坂や京都の呉服店で、年に一度の安売りがおこなわれた。呉服の仕立ての際にあまった端切れを竿につるし、軒から通りに突き出して、お客さまにお安くして販売した。年に一回のチャンスとして、買いに来られる人々で賑わった   えびす講の旧暦10月20日に、商売上の駆け引きで、お客さまを欺いた罪を払い、神罰を免れることを祈る目的で、「誓文払い」が始まった。現在も商店のバーゲンセールのルーツはこの誓文払いである。 10月の伏見町栫山のテーマは秋風             今月のテーマは秋風。 多彩な秋は、刻々と風が変わる。秋風は、金風や白風とも言われる。秋の訪れを知らせる立秋に吹く風、残暑を伴って初秋に吹く風、冬を忍ばせながら吹く晩秋の風。秋風は多様 秋は一年のなかで、最も食材に恵まれる。「走り」「旬」「名残」という言葉がある。四季折々の自然の恵みを得て育った食材は、収穫時期によって味が異なる。「旬」とは食べごろを迎える最盛期に食材。旬の前に季節を先取り、新しい季節の訪れを待ち望むかのように出はじめのものをいただくのが「走り」。逆に、旬が過ぎた頃、去り行く季節を惜しみつつ味わうのが「名残」 豊穣の秋の食材は、派手さはなくても、味がよく、栄養豊かな食材。それらをまぜあわせ、身体に取り入れることで、長く寒い冬を乗り切る準備をはじめるのが、秋の料理。今月の伏見町栫山の料理は - 木の実のとうふ  -子持ちの鮎煮浸し 柿の葉茶で  -松茸 すっぽん 春菊 奉書焼き -鯛 雲丹 造り あしらい  -伊勢海老 湯引き 

200年前の「諸国の台所」の大坂料理

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 200年前の「諸国の台所」の大坂料理 210 年前の大坂船場。船場の町人たちが、お客さまを接待した。カメラもスマホがなかった200年前、どんな料理だったか、映像は残っていない。どんな味だったかは分からない。献立から想像するしかない。 文化10 年( 1813 年)の大阪・船場。薬種問屋が集まる道修町 3 丁目の会所で、長崎奉行手附を大坂商人が本膳料理で接待した。大阪くらしの今昔館の谷直樹前館長に「道修町3丁目文書」を大阪くらしの今昔館の谷直樹前館長に読み解き、伏見町栫山の栫山一希店主に、その料理を再現してもらった 一品ごとに並べる現代の懐石(会席)料理と違い、本膳料理は「 5 つの膳」を一度に出す。圧巻である。すべてを食べる訳ではない。食べるのは「参(三)の膳」までで、鯛の姿焼きの「与(四)の膳」と菓子の「五の膳」は持ち帰り用だった、家に持ち帰り、家人や店の者が食べたのだろう 本膳料理 は武家の儀礼料理。型や決めごとがある。たとえば、こう。飯茶碗を持ち、一口食べ、つづいて汁椀を飲む、また飯茶碗を持ち…という手順を 3 度繰り返す。飯は一口残す。茶漬けにして香の物とともに食べる。移り箸や食事中は会話しないなど、料理の作法には、日本ならではの奇数の様式美学も貫かれている 神饌(しんせん)料理や奈良・平安時代の宮廷の大饗料理につづき、これらに禅宗の精進料理が混ざりあった。公家儀式の神饌料理と精進料理が結合して、武家の「本膳料理」と茶席の「懐石料理」が生まれた。自然の恵みである旬の食材を感謝の心でいただく、「熱いものは熱く、冷たいものは冷たくいただく」という料理美学は、人々の心に響き、現代に日本の料理の本質は受け継がれている 江戸時代の大坂に全国から商談・観光客が集まり、日本有数の商業・観光都市であった。同時に、全国の食材や物産が市場に集める「諸国の台所」でもあった。海に近い江戸は「割」(切る)料理、内陸の京都の「烹」(煮る)料理に対して、海にも陸にも近かった大坂では「割」「烹」料理が生まれた。三都市、調達できる食材を活かした料理が洗練されていく この大坂船場では、新鮮で旬の豊富な食材を使い、甘すぎず辛すぎという「浪華(なにわ)の食い味」が生み出され、 200 年前の大坂の料理人から大坂料理の本質を受け継ぎ、 100 年先 200 年先の料理人

まざりあいー伏見町栫山が大切にしていること

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  天下の台所といわれた町があった 江戸時代、西回り航路が開発され、全国の藩から米が大坂に持ち込まれた。堂島の米市場で売り買いされたのをはじめ、全国から菜種・昆布・野菜・魚・木材などがモノとともに、人、情報が大坂で混ざり合った。そのなかから、新たな独創的なモノやコトが生まれた 有名な言葉がある。「天下の貨(たから)七分は浪華にあり、浪華の貨七分は船中にあり」。そういわれた天下の台所 大坂は、全国に張り巡らされた水路ネットワークが混ざり合う場所だった。その核であった船場に日本料理店が生まれて1年。伏見町栫山から見える様々な風景をこれから綴っていきたい 出会いもの 日本料理の精神そのもの 海のもの、川のもの、山のもの、野のものが、大坂で、出会う。旬の食材どおしを“まぜ”て、それぞれの良さを引き立てあう 季節ごとに、食材をまぜる。まぜるには、ふたつある。元の食材が見えなくなる「混ぜる」と、まぜても元の食材が見える「交ぜる」のふたつのまぜるを組み合わせ、旬の食材の良さを活かしきることが料理には大切だった 季節の出会いものが、日本料理の原点である 9 月の伏見町栫山の料理 夏の名残と秋の走りと季節の変わり目の初秋の出会いもの 五節句のひとつである重陽の節句は、菊を眺め、菊酒を飲み、栗ご飯を食べ、邪気を払い、無病息災、長寿を願う平安時代由来の行事 同じく平安時代からつづく十五夜には、月を愛でる。菊を見て、月を見て、春からの収穫に感謝する時期だった 日に日に秋がしのびこんでくるが、まだまだ夏がつづく。 お客さまの体調は日々変わる。人によって変わるこの時季 伏見町栫山では、日々、塩と醤油の加減を塩梅する。喉越しのいい料理を心がける夏から、秋は温かい料理からはじめ、噛みしめて味がひろがる料理となるよう、季節の食材の大きさをお客さまのお姿を考えて、包丁をいれさせていただいている  (社会文化研究家 池永寛明) 船場で企業人として40年間勤務したあと、社会文化研究家として、ビジネス文化、大阪の風土と文化、食文化を研究しnote日経COMEMOキーオピニオンリーダーhttps://note.com/hiroaki_1959/などで、情報発信中