なにわの喰い味
江戸時代、三都はそう呼ばれていた。大坂はもっと違う貌があった。大坂は万華鏡のような都市だった。水の都、商都大坂、天下の台所、芸術の都市、学問の都市、観光の都市、美食都市…。有名な言葉がある
「天下の貨(たから)七分は浪華にあり、浪華の貨(たから)七分は船中にあり」
江戸時代の日本の富の7割が大坂にあり、大坂の富の7割は船のなかにあった…江戸後期の儒家である広瀬旭荘が「九桂草堂随筆」に書いた、江戸時代の大坂を象徴する言葉
出船千艘 入船千艘
という言葉も有名だった。江戸時代に河村瑞賢が西回り航路を開拓した。蝦夷地から日本海の東北・北陸・山陰の湊を経て、瀬戸内海から中・四国を通って、大坂をつなぐ物流の大動脈を構築した。北前船が海上を走って、多くの寄港地をつなぎ、物々交換する諸国物産回しをした
大坂への上り船。各藩の米が大坂にはこばれ、大坂で取引され換金された。米だけが運ばれたのではない。干しニシン、干し数の子、ニシン・イワシしめかす、塩ザケ、昆布、干しナマコ、干しアワビ、干しホタテ貝、材木、菜種、各地産品など、諸藩の産品が大坂に集められ、市がたった。堂島の米市、天満の青物市、雑喉場の魚市にヒト、モノが集められた。1730年に開設された堂島米会所では、世界初の先物取引がおこなわれた
大坂からの諸国への帰り船には、畿内の商品、酒、しょうゆ、塩、砂糖、木綿、衣類、なべ、かま、紙、薬、道具類、陶器、人形、化粧品、なわ・むしろなどを詰め込みれて、諸国に運ばれた
この物流ネットワークが、「天下の台所」大坂をつくりあげた。商業都市大坂にとって、商談の場はなによりも重要だった。料理を食べながらの商談。大坂の商いは、人と人との信用にもとづいた口約束が多く、商談は商店のなかだけでなく、茶屋や料理店で食をともにしながら、まとまれば、手打ちとなった。手打ち酒をかわした。食による接待は、大坂の商いにとって重要な機能だった
江戸時代の三都に、人、物が集まった。トラックも冷蔵・冷凍庫もガス・電気の調理器具も、保管技術もなかった江戸時代は、集められる食材のちがいが、地域ごとの食を変えた
江戸は海に近かったので「割」が中心、京は内陸なので「烹」中心。天下の台所として食材が集まった水都大坂では、「割」と「烹」が融合された。割とは魚などの食材を割く(切る)こと、烹るとは煮ること
同じ畿内の京と大坂でも、料理の味が違った。調達できる食材が影響した。大坂は深い昆布の味わいが食材の旨さを補い、強い余韻が残る味わいの「なにわの喰い味」であるのに対して、京は食材の味を生かす淡味「京の持ち味」を育てた
この「なにわの喰い味」に、大坂商人の「もてなし」が乗っかった。大坂には、諸国から商売のため、観光のために人々が集まった。食の嗜好が異なる全国の人に対して、だれをも満足させるため、甘すぎず辛すぎず、濃すぎず淡(薄)すぎない「なにわの喰い味」が磨かれた
食倒れ大坂の伏見町栫山の12月の料理にも、それは息づいている
河豚造り