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日想観と重陽の節句に

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平安時代の初期の四天王寺で、西の海に沈む太陽を観ながら極楽浄土に想いを馳せる修行を空海が始めた。以来 1200 年、春と秋の彼岸の中日に、四天王寺に参拝して、夕陽を拝む大阪の生活習慣として広がり、日想(じつそう)観と呼ばれた。現代も、四天王寺のみならず、日本一の超高層ビルであるあべのハルカスから、西に沈む夕陽を観る人々が多い 江戸時代の大阪の生活様式の多くは、古来より中華文明、漢字文化圏由来の行事が多い。五節句はそのひとつ。一月七日は七草粥を食べる 人日 、三月三日が 上巳 、五月五日は 端午 、七月七日は 七夕 、そして九月九日は 重陽 と呼ばれ、その生活行事が現在も行われている。 末永く家の繁栄を願う大店の風習が江戸時代の船場の大店にあった。 「送窮鬼(そうきょうき)」 という 貧乏神送りで ある。貧乏神は焼味噌が好物で、お店のなかに寄りつかれては困るので、ふだんは味噌を焼かないが、毎月 30 日にかぎり、番頭が台所で大きな 焼味噌の玉 をつくる。 1 ヶ月間、家内にいた貧乏神が店のなかで充満したにおいにつられ、台所に集まる。その集まったころあいをはかって、味噌玉を割り、貧乏神を中に封じこめ、川に流して、福禄の神を迎え、家の幸福と安寧を祈った この大坂船場の行事は 「家中に日常的に始末を徹底させる」 ことが目的だったが、大阪の生活文化にはこのような中国由来のものが多い 中国では 奇数 を縁起の良い「陽の数」と信じられた。いちばん大きな数「九」が重なる9月9日は、陽が重なる 「重陽」 であり、大変めでたい日だった。ただ陽の気が強すぎて、不吉なことが起こりやすい日ともされたため、邪気を払って無病息災を願う節句の行事が行われた   節句は自然の恵みに感謝して、旬の食材を食べて、健康を願った。重陽の節句の時季は作物の収穫時期にあたり、不老長生を得ると言われる栗ご飯を食べてお祝いすることから 「栗の節句」 と呼ばれ、また菊の花は強い香りで邪気を払うとされ、菊を眺めて、長寿の力があると考えられた菊酒を飲む「菊花の宴」を行なうことから、 「菊の節句」 とも言われた 蕎麦米木の子浸し クラおろし 車海老黒豆ずんだ合え 鰻白焼き 九月は収穫の秋。春に植えた作物が秋に収穫できたことへの感謝を表す行事は世界中にある。日本の秋に開催される新嘗祭、神嘗祭、秋祭りは、収穫

大阪と京都の夏—祭りと鱧と鰻

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天神祭 八寸(鮎 蛸 柿の葉すし 海月 鮎 背腰し 焼きとうもろこし) 天災は怨霊の仕業だと古代の人には信じられていた。怨霊の怒りを鎮めるために、昔の人は祭りを行った。さらに夏が近づくと、天災に加えて流行病が不安だった。悪霊を祓い疫病の退散への願いが、都市で夏祭りが行われる理由であった 京都と大阪の代表的な夏祭りに、祇園祭と天神祭がある。7月に入ると、京都の祇園祭は吉符入を皮切りに前祭の山鉾巡行と後祭の山鉾巡行、大阪の天神祭は陸渡御と船渡御と奉納花火が有名 祇園祭と天神祭の祭りの形態は少し違う。ゴブラン織で飾られた山鉾が鉦(かね)や笛の音とともに、京都の町を巡行する祇園祭。花火を打ち上げ、太鼓の音とともに奉安船や奉拝船が大川を渡る天神祭。京都と大阪のこの2つ祭りはまったく異なるように見えるが、いずれも神輿を先導する鉾や船を美しく飾ったことが、祭りを発展させた原動力でもあった              釣瓶水指に五色の食材で七夕 さて大阪と京都の夏の食と言えば「鱧(はも)」。ハモの語源は「噛(か)む」「食(は)む」から。鱧はなんでも食べる、たくましく生命力豊かな魚であることから、「鱧」という漢字があてられたという 蒸し暑い時季の京都・大阪の夏祭りには滋養のある鱧が好んで食べられたが、江戸では鱧を食べるという食文化はあまりなかった。それはなぜか?西日本の海で獲れる鱧を生のまま江戸に輸送することが江戸時代は難しかったこと、江戸前の海ではたくさんの魚が獲れたこと、なによりも鱧料理に必須の骨切りに手間がかかることなどの理由から、江戸では鱧が普及しなかった  鱧  ちり 発酵玉葱 山桃 山葵 鱧料理は料理人の技量に左右される。鱧の落としは、新鮮な鱧を締め、12時間おいた後に骨切りをして、一寸(約3ミリ)あたりに20回包丁を入れる。薄い塩水を沸騰させ、鱧の身を10秒間湯引きしたあと、氷水に落とすと、身がひらく。ひらいた鱧の水分を拭き取り、煎(い)り酒をつける 料理人だけでは、最高の鱧料理をお出しすることはできない。鱧が獲れる漁港と市場と料理人とのチームワークが必要である。新鮮で高品質な鱧の捕獲・輸送・保管、そして下処理や鱧の身の時間ごとの変化を踏まえた調理技術が、上方の夏の食文化を生み出しつづける 夏ならではのもう一品は、奥琵琶湖天然鰻(うなぎ)の白焼き。

夏越しの祓—この半年の穢れを落とし、これから半年の無病息災を

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  夏越(なご)しの祓(はらえ)が近づいている。1年の半分にあたる 6 月の晦日( 30 日)に疫病退散、無病息災を願う神事です。半年の間に、知らず知らずに身についた罪・穢(けが)れを落とし、残りの半年を心身とも清々しく、無事に過ごせるよう、特に暑い夏に心身が負けぬよう病にならぬようにとの願いを込め、茅の輪をくぐる 日本料理も季節の行事を担う。栫山では、茅の輪のなかに、菱蟹・鮑・岩茸・長芋・黄味酢・松の実を組み合わせ、料理を食べながら、夏越しの祓をしていただいた 日本料理は旬の食材の特性を考え、 それぞれの食材ごとに、生、煮る、焼く、揚げる、蒸すという調理を行うことによって、人の内臓、筋肉、血、水、熱を調(ととの)え、本来、体がもっているリジリエンス(回復)力を高める 日本料理には、茶懐石料理からある献立のひとつに、八寸がある。もともとは一辺八寸(約24 cm )の正方形の杉の盆に、山のものと海のものを一種類ずつ盛りつけた料理スタイルからきたもので、八寸が出されるのを機に、亭主がお客さまにお酒を勧めるという意味が込められていた   現代の八寸は、旬の食材を使った色とりどりの献立、季節を表現する料理となった。今月の栫山の八寸は、鮎・鰻ざく・海老黄味寿し・淡竹飯蒸し・鵜駕を盛り付けさせていただいた 海・川・山・里のものの旬の食材を皿の上に凝縮・統合して、土と水と風など日本の自然を交響楽のように、季節を感じていただけるようにした。そのために、手数、時間をかけた「下拵(したこしら)え」があってこそ、五味五色がいい塩梅となり、かつ華やかな料理となれるよう、日々精進している。 最後の一品は、伊勢海老・玉蜀黍(とうもろこし)・万願寺唐辛子。これからの暑い夏を乗り越えられることを祈って

塩梅の妙—日本料理から生まれた日本文化

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  江戸時代の梅田の堤で、5月5日の早朝に、近隣の農夫が牛を飾り付けて、堤で自由に駆けさせる「牛の藪入り」がおこなわれた。牛が病にかからなくなるとされ、農夫は牛に粽(ちまき)を食べさせて、人々はその様子を見学した。子どもが、粽を食べると、疱瘡(ほうそう)が軽くなるとも信じられていた 5月5日の端午の節句に粽を食べるのは、中国の故事にならい、難を避ける厄除けを願ってのこと。この上方の節句の行事が江戸に伝わるが、江戸では粽が柏餅に変わる。柏の木の葉は、新芽が出るまで古い葉は落ちないという特性から、新芽を子どもに、古い葉を親に見立て、家系を絶やさなず子孫繁栄を祈るために、柏餅を食べるという風習が広がった   兜と菖蒲 寒暖の差のあるこの季節は、体に影響を与えることが多いため、香りのよいものが邪気を払うと信じられ、菖蒲の葉を軒下に吊るしたり、菖蒲の根を刻んだものを飲んだり、お風呂に菖蒲を入れたりした。その生活スタイルは、現在につづいている 今月の栫山の料理。兜の器に鎧につつまれた伊勢海老に、そら豆に、海老そぼろに、菖蒲をかざる。柏餅に見立てた筍のおこわ。初夏の鮮魚は、菖蒲湯でしゃぶしゃぶし菖蒲酢で 春から初夏にかけて、日本料理はがらっと変わる。器を変える。土物の陶器から、石物の磁器や硝子の器に。料理の順番も変える。冬は温かい料理からはじめて胃を和らげるが、夏は逆に冷えたビールを喉越しよく飲めるよう、香ばしくパリッとした食感のある料理からはじめる 食材だけでなく、味付けも変える。料理に使う醤油と塩の配分を変える。冬は7:3だった配分を、初夏に4:6に変え、夏には3:7にと、逆転させる。初夏の5月の入った日本料理は、塩加減、塩梅(あんばい)が大事。ほどよい加減をあらわす「塩梅」という言葉は、料理から生まれた   春に旬を迎える、あみがさ茸を雲丹と一緒に小鍋で。お椀は鯉のぼりに見立て鮎のぼり。筍と餅とたで葉と栫山の季節の混ざり合いの出汁で

真昆布がつくった大阪食文化

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  飯蛸煮 薄豆と唐墨 さより 白魚 帆立 黄味すし 花筏八寸 今年の桜の開花は2週間はやい。北海道の松前城の桜も例年よりもはやく咲いた。かつて北前船で賑わった江差の旅庭群来に泊まり、日本料理を食べた。旅館より25㎞以内の食材で調理された料理の数々に感動したが、とりわけ出汁が上品な旨みと甘味がでて絶品だった   函館沿岸エリアで採取された、幅広で厚みのある真昆布を3年寝かせ粉吹きにしてひいた出汁だった。江戸時代から現在においても、大阪料理の出汁に使う昆布出汁は真昆布が多い。大阪の水と相性がよく、江戸時代の諸国の台所と言われた大坂では、昆布と言えば真昆布だった それはそう。真昆布は、松前漬けと鰊(にしん)の加工物や肥料とともに、江戸時代に蝦夷地と呼ばれた函館・松前・江差の湊から、北前船で、日本海・瀬戸内海を渡って、大坂に運ばれた。大坂が天下の台所と呼ばれる日本最大の商業都市となったのは、この北前船による日本中をつないだ交易・情報・文化ネットワークによることが大きい 日本料理の本質は、出会いもの。地域ごとに、旬の食材が出会い、それぞれを混ざりあわせて、妙を究めた。山から野から海から川から集めた新鮮な食材と、昆布・鰹・鮪などの材料の配合比率を、季節ごとに変えて、地域の水を使ってとりだした出汁を掛け合わせ、地域独自の料理をつくりあげた。日本料理の出汁には、地域ならではの文化が埋め込まれている。 出汁は地域文化である 日本料理栫山の今月の料理では、この真昆布と、キハダマグロを原料とした、しび節とよばれるまぐろ節を混ざりあわせた出汁をとった   山菜真丈 白ぐじ 香柚子   江戸時代の天下の台所大坂に、魚が集まった。堂島の米市場、天満の野菜市場とならぶ、雑喉場(ざこば)の魚市場は江戸堀・京町堀などの西にあり、魚問屋が軒をならべた。蝦夷地の昆布とともに、遠近の浦々から運ばれるのは、クジラやマグロやカツオといった大魚から、鯛や鰯など魚までいろいろ。大坂湾、淡路島、瀬戸内海、日本海、蝦夷地から、魚、水産物が集まった。明け方のまだ薄暗いなか、船から魚がおろされ、問屋に運ばれ、魚市場に並べられた 今月の日本料理栫山での料理でお出しした魚など水産物は、雲丹、車海老、鮑、鰹、伊勢海老、飯蛸、さより、帆立、白魚、甘鯛、蛍イカ、サクラマスなどを、豊かな食材に感

三色真薯の煮椀に込めた想い、船場汁に込めた想い

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  三月の呼び名は多い。弥生三月とよくいうが、弥生(やよい)の弥はいよいよ、生は草木が芽吹くさまをあらわします。3月3日は上巳(じょうし)の節句、桃の節句であり、雛祭りをおこなうので、雛月とも呼ばれていました。その雛月に、三色菱餅を見立てた料理をつくりました 雛祭りの縁起物である菱餅は、雪が溶けて大地に草が芽吹き、桃が咲く様子を見立てています。菱餅は「緑・白・紅」3色。緑色は芽吹く若草を表現し身を清める「厄除け」を、白は清浄・純白を表現して「子孫繁栄」「長寿」を、紅は桃の花で「魔除け」を意味している。この3色の餅は、心臓を見立てた菱形に切り、母と子どもが健やかであるようにと願いました   縁起物の三色の菱餅は、真薯(しんじょ)です。3色の帯は金時人参で赤を、大根で白を、ほうれん草で緑を表現しました。桃の節句につきものの蛤(はまぐり)で出汁をひき、白身魚、海老、蛤(はまぐり)のすり身に山芋、卵白を混ぜ、塩で味を調えた菱餅をつくりました。そして昔からお祝いなどのハレの席に使われた、春先しか採れない海藻・神馬(じんば)草の新芽を添えました。このような「見立て」が日本料理の本質です   今月の栫山伏見町の料理物語は、雛あられとともに白酒で邪気をはらい、黄身すし・うに・菜の花・車海老などのちらし寿司、旬の筍と木の芽に出汁を混ぜ、白子のなめらかさに一工夫した椎茸を混ぜ、旬のおこぜ・のどぐろの花わさび、蕗(ふき)餅のお椀、春の風が吹くと集まる春の貝寄せ八寸、大阪産のうすい豆と春だいこん、野菜の炊き合わせ。そして最後の一品は、栫山伏見町の始末の料理「船場汁」です その日の料理に使った野菜の皮やヘタ、魚の骨をくだき、昆布と鰹から取り出した出汁に混ぜ合わせた、その日その日で変わる船場汁です。旬の、その日の食材を活かし、無駄なく使いきり、食べつくしていただきたいと願いました 江戸時代からの商人のまちであった大坂船場の本質である始末の心をうけつぎ、後世につないでいきたいと考える栫山伏見町が考えた始末の心をカタチにした料理です。現在、世界・日本がめざしている SDGs (持続可能な開発目標)の、栫山伏見町の取り組みです 季節、旬の食材の数々を組み合わせ、創意工夫して、お客さまがお喜びいただく笑顔、お客さまに心身にやさしい料理を日々めざしています

冬のなごりと春のはしり

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文化初( 1804 )年、大坂の高津神社の東に、江戸の亀戸梅屋敷を模して梅林を植えた梅屋敷が開かれた。如月の梅の盛りの頃は、多くの人が繰り出し、連歌や俳諧や狂歌、演奏や踊りを楽しんだという 山菜と鮑、車海老、梅の香り 2 月 12 日の夜、東大寺の二月堂の本尊十一面観音菩薩に供える香水を汲みあげることからお水取り、練行衆が上堂する際に足元を照らす大松明で先導することからお松明とも呼ばれる春を告げる行事は、天平勝宝 4 (752)年から現在までつづけられている。日本の生活文化には、仏教が根差している 日本の食文化は、古来より、野菜と魚と鳥が中心だった。日本の料理も、仏教の教えもあり、獣肉は敬遠されていた。室町時代までの料理の膳に並ぶ鳥は、雉(きじ)が主役だった。江戸時代に入って主役は鶴に移ったが、実際は雁(がん)や鶏(にわとり)が多く食べられたという 「鴨が葱(ねぎ)を背負って来る」という都合の良い状況をあらわすことわざであるが、鴨料理からうまれている。鴨は食感が柔らかく脂(あぶら)が甘い鴨肉だが、野鳥特有の匂いがあるために、葱などの香味を加えて旨(うま)みを高める。この鴨と葱を組み合わせた鴨鍋や鴨南蛮そばなどがうまれた 琵琶湖に飛来する冬の鴨は身が引き締まり、徳川幕府に献上されたこともあったようで、冬の料理の貴重な食材だった。現在も、琵琶湖には、鴨が飛んでくる 冬の寒さのなかに感じるかすかな春が近づいている季節、冬のなごりと春のはしり、お水取りをテーマにした八寸をご用意しました。河豚を福にな ぞらえ、河豚(福)八寸 福いっぱいを感じていただきたく、河豚の白子と、河豚の唐揚げをお出しした

五味五色を幾重にも織り込んでいく日本料理

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  五味五色を幾重にも織り込んでいく日本料理   八寸(難波葱浸し・椎茸と車海老・海老芋鮑・松葉蟹・堀川牛蒡たれ焼き) 正月元旦は「家々門とさし(閉ざし)年始の寿賀」を述べ、二日は「商人職人初売仕事」、四日は「福あかしとて三ヶ日の残り物をごた煮にして」祝った。七日は「七草粥(ななくさかゆ)」、十日は今宮 戎や堀川戎を参詣し、一五日の小正月は、とんどの火を火縄に移して小豆粥を煮るのが習わしであった(江戸時代の大坂の年中行事を記した「繁花風土記(はんかふどき)」より) 江戸時代の大坂の一年は、一月十日の今宮十日恵比寿からはじまる。今宮社は福を祈って詣でる人々で賑わった。商売繁盛で笹もってこい。境内では米俵・白銀包・御札などの縁起物が売られ、参詣者はそれを買って笹の枝に結びつけて、持ち帰った。芸者衆を乗せて町内を練り歩く「宝恵駕籠(ほえかご)」の行列も、祭礼を華やかに彩った。商売繁盛で笹もってこいのお囃子が、天下の台所大坂の年初めに響いた 一月十五日の小正月は、小豆粥を食べた。生命や炎を象徴する「赤」を体の中にいれることで、一年の邪気が取り除かれると信じられてきた日本人の食の習慣だった                                      祝いの赤:丹波大納言赤飯・赤いか甲南漬・雲丹 日本人は古来より、陰陽道の考え方から、偶数よりも奇数を好んできた。三歳「髪置きの儀」・五歳「袴着の儀」・七歳「帯解の儀」の由来する七五三のお祝いはその流れ。 日本料理の世界でも、奇数が基本。たとえば刺身は三,五,七切れに盛り付けます。本膳料理の膳の数は、七・五・三となる。とりわけ奇数のなかでも「五」が大切な数字だった 「五味(甘味・酸味・塩味(鹹)苦味・辛味)」(中国の五行説)は日本人特有の味覚をあらわし、「五色(青・黄・赤・白・黒)」は盛り付けの基本だった。季節ごとに、これらを統合して、旬の食材を見栄え良く、栄養がとれるよう、バランスを整えていく。このように、日本料理はシンプルに見えるが、手間をかけ、幾重にも味を織り込んでいく                                   腕(唐墨餅・蕪みぞれ仕立て)