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塩梅の妙—日本料理から生まれた日本文化

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  江戸時代の梅田の堤で、5月5日の早朝に、近隣の農夫が牛を飾り付けて、堤で自由に駆けさせる「牛の藪入り」がおこなわれた。牛が病にかからなくなるとされ、農夫は牛に粽(ちまき)を食べさせて、人々はその様子を見学した。子どもが、粽を食べると、疱瘡(ほうそう)が軽くなるとも信じられていた 5月5日の端午の節句に粽を食べるのは、中国の故事にならい、難を避ける厄除けを願ってのこと。この上方の節句の行事が江戸に伝わるが、江戸では粽が柏餅に変わる。柏の木の葉は、新芽が出るまで古い葉は落ちないという特性から、新芽を子どもに、古い葉を親に見立て、家系を絶やさなず子孫繁栄を祈るために、柏餅を食べるという風習が広がった   兜と菖蒲 寒暖の差のあるこの季節は、体に影響を与えることが多いため、香りのよいものが邪気を払うと信じられ、菖蒲の葉を軒下に吊るしたり、菖蒲の根を刻んだものを飲んだり、お風呂に菖蒲を入れたりした。その生活スタイルは、現在につづいている 今月の栫山の料理。兜の器に鎧につつまれた伊勢海老に、そら豆に、海老そぼろに、菖蒲をかざる。柏餅に見立てた筍のおこわ。初夏の鮮魚は、菖蒲湯でしゃぶしゃぶし菖蒲酢で 春から初夏にかけて、日本料理はがらっと変わる。器を変える。土物の陶器から、石物の磁器や硝子の器に。料理の順番も変える。冬は温かい料理からはじめて胃を和らげるが、夏は逆に冷えたビールを喉越しよく飲めるよう、香ばしくパリッとした食感のある料理からはじめる 食材だけでなく、味付けも変える。料理に使う醤油と塩の配分を変える。冬は7:3だった配分を、初夏に4:6に変え、夏には3:7にと、逆転させる。初夏の5月の入った日本料理は、塩加減、塩梅(あんばい)が大事。ほどよい加減をあらわす「塩梅」という言葉は、料理から生まれた   春に旬を迎える、あみがさ茸を雲丹と一緒に小鍋で。お椀は鯉のぼりに見立て鮎のぼり。筍と餅とたで葉と栫山の季節の混ざり合いの出汁で

真昆布がつくった大阪食文化

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  飯蛸煮 薄豆と唐墨 さより 白魚 帆立 黄味すし 花筏八寸 今年の桜の開花は2週間はやい。北海道の松前城の桜も例年よりもはやく咲いた。かつて北前船で賑わった江差の旅庭群来に泊まり、日本料理を食べた。旅館より25㎞以内の食材で調理された料理の数々に感動したが、とりわけ出汁が上品な旨みと甘味がでて絶品だった   函館沿岸エリアで採取された、幅広で厚みのある真昆布を3年寝かせ粉吹きにしてひいた出汁だった。江戸時代から現在においても、大阪料理の出汁に使う昆布出汁は真昆布が多い。大阪の水と相性がよく、江戸時代の諸国の台所と言われた大坂では、昆布と言えば真昆布だった それはそう。真昆布は、松前漬けと鰊(にしん)の加工物や肥料とともに、江戸時代に蝦夷地と呼ばれた函館・松前・江差の湊から、北前船で、日本海・瀬戸内海を渡って、大坂に運ばれた。大坂が天下の台所と呼ばれる日本最大の商業都市となったのは、この北前船による日本中をつないだ交易・情報・文化ネットワークによることが大きい 日本料理の本質は、出会いもの。地域ごとに、旬の食材が出会い、それぞれを混ざりあわせて、妙を究めた。山から野から海から川から集めた新鮮な食材と、昆布・鰹・鮪などの材料の配合比率を、季節ごとに変えて、地域の水を使ってとりだした出汁を掛け合わせ、地域独自の料理をつくりあげた。日本料理の出汁には、地域ならではの文化が埋め込まれている。 出汁は地域文化である 日本料理栫山の今月の料理では、この真昆布と、キハダマグロを原料とした、しび節とよばれるまぐろ節を混ざりあわせた出汁をとった   山菜真丈 白ぐじ 香柚子   江戸時代の天下の台所大坂に、魚が集まった。堂島の米市場、天満の野菜市場とならぶ、雑喉場(ざこば)の魚市場は江戸堀・京町堀などの西にあり、魚問屋が軒をならべた。蝦夷地の昆布とともに、遠近の浦々から運ばれるのは、クジラやマグロやカツオといった大魚から、鯛や鰯など魚までいろいろ。大坂湾、淡路島、瀬戸内海、日本海、蝦夷地から、魚、水産物が集まった。明け方のまだ薄暗いなか、船から魚がおろされ、問屋に運ばれ、魚市場に並べられた 今月の日本料理栫山での料理でお出しした魚など水産物は、雲丹、車海老、鮑、鰹、伊勢海老、飯蛸、さより、帆立、白魚、甘鯛、蛍イカ、サクラマスなどを、豊かな食材に感

三色真薯の煮椀に込めた想い、船場汁に込めた想い

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  三月の呼び名は多い。弥生三月とよくいうが、弥生(やよい)の弥はいよいよ、生は草木が芽吹くさまをあらわします。3月3日は上巳(じょうし)の節句、桃の節句であり、雛祭りをおこなうので、雛月とも呼ばれていました。その雛月に、三色菱餅を見立てた料理をつくりました 雛祭りの縁起物である菱餅は、雪が溶けて大地に草が芽吹き、桃が咲く様子を見立てています。菱餅は「緑・白・紅」3色。緑色は芽吹く若草を表現し身を清める「厄除け」を、白は清浄・純白を表現して「子孫繁栄」「長寿」を、紅は桃の花で「魔除け」を意味している。この3色の餅は、心臓を見立てた菱形に切り、母と子どもが健やかであるようにと願いました   縁起物の三色の菱餅は、真薯(しんじょ)です。3色の帯は金時人参で赤を、大根で白を、ほうれん草で緑を表現しました。桃の節句につきものの蛤(はまぐり)で出汁をひき、白身魚、海老、蛤(はまぐり)のすり身に山芋、卵白を混ぜ、塩で味を調えた菱餅をつくりました。そして昔からお祝いなどのハレの席に使われた、春先しか採れない海藻・神馬(じんば)草の新芽を添えました。このような「見立て」が日本料理の本質です   今月の栫山伏見町の料理物語は、雛あられとともに白酒で邪気をはらい、黄身すし・うに・菜の花・車海老などのちらし寿司、旬の筍と木の芽に出汁を混ぜ、白子のなめらかさに一工夫した椎茸を混ぜ、旬のおこぜ・のどぐろの花わさび、蕗(ふき)餅のお椀、春の風が吹くと集まる春の貝寄せ八寸、大阪産のうすい豆と春だいこん、野菜の炊き合わせ。そして最後の一品は、栫山伏見町の始末の料理「船場汁」です その日の料理に使った野菜の皮やヘタ、魚の骨をくだき、昆布と鰹から取り出した出汁に混ぜ合わせた、その日その日で変わる船場汁です。旬の、その日の食材を活かし、無駄なく使いきり、食べつくしていただきたいと願いました 江戸時代からの商人のまちであった大坂船場の本質である始末の心をうけつぎ、後世につないでいきたいと考える栫山伏見町が考えた始末の心をカタチにした料理です。現在、世界・日本がめざしている SDGs (持続可能な開発目標)の、栫山伏見町の取り組みです 季節、旬の食材の数々を組み合わせ、創意工夫して、お客さまがお喜びいただく笑顔、お客さまに心身にやさしい料理を日々めざしています

冬のなごりと春のはしり

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文化初( 1804 )年、大坂の高津神社の東に、江戸の亀戸梅屋敷を模して梅林を植えた梅屋敷が開かれた。如月の梅の盛りの頃は、多くの人が繰り出し、連歌や俳諧や狂歌、演奏や踊りを楽しんだという 山菜と鮑、車海老、梅の香り 2 月 12 日の夜、東大寺の二月堂の本尊十一面観音菩薩に供える香水を汲みあげることからお水取り、練行衆が上堂する際に足元を照らす大松明で先導することからお松明とも呼ばれる春を告げる行事は、天平勝宝 4 (752)年から現在までつづけられている。日本の生活文化には、仏教が根差している 日本の食文化は、古来より、野菜と魚と鳥が中心だった。日本の料理も、仏教の教えもあり、獣肉は敬遠されていた。室町時代までの料理の膳に並ぶ鳥は、雉(きじ)が主役だった。江戸時代に入って主役は鶴に移ったが、実際は雁(がん)や鶏(にわとり)が多く食べられたという 「鴨が葱(ねぎ)を背負って来る」という都合の良い状況をあらわすことわざであるが、鴨料理からうまれている。鴨は食感が柔らかく脂(あぶら)が甘い鴨肉だが、野鳥特有の匂いがあるために、葱などの香味を加えて旨(うま)みを高める。この鴨と葱を組み合わせた鴨鍋や鴨南蛮そばなどがうまれた 琵琶湖に飛来する冬の鴨は身が引き締まり、徳川幕府に献上されたこともあったようで、冬の料理の貴重な食材だった。現在も、琵琶湖には、鴨が飛んでくる 冬の寒さのなかに感じるかすかな春が近づいている季節、冬のなごりと春のはしり、お水取りをテーマにした八寸をご用意しました。河豚を福にな ぞらえ、河豚(福)八寸 福いっぱいを感じていただきたく、河豚の白子と、河豚の唐揚げをお出しした

五味五色を幾重にも織り込んでいく日本料理

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  五味五色を幾重にも織り込んでいく日本料理   八寸(難波葱浸し・椎茸と車海老・海老芋鮑・松葉蟹・堀川牛蒡たれ焼き) 正月元旦は「家々門とさし(閉ざし)年始の寿賀」を述べ、二日は「商人職人初売仕事」、四日は「福あかしとて三ヶ日の残り物をごた煮にして」祝った。七日は「七草粥(ななくさかゆ)」、十日は今宮 戎や堀川戎を参詣し、一五日の小正月は、とんどの火を火縄に移して小豆粥を煮るのが習わしであった(江戸時代の大坂の年中行事を記した「繁花風土記(はんかふどき)」より) 江戸時代の大坂の一年は、一月十日の今宮十日恵比寿からはじまる。今宮社は福を祈って詣でる人々で賑わった。商売繁盛で笹もってこい。境内では米俵・白銀包・御札などの縁起物が売られ、参詣者はそれを買って笹の枝に結びつけて、持ち帰った。芸者衆を乗せて町内を練り歩く「宝恵駕籠(ほえかご)」の行列も、祭礼を華やかに彩った。商売繁盛で笹もってこいのお囃子が、天下の台所大坂の年初めに響いた 一月十五日の小正月は、小豆粥を食べた。生命や炎を象徴する「赤」を体の中にいれることで、一年の邪気が取り除かれると信じられてきた日本人の食の習慣だった                                      祝いの赤:丹波大納言赤飯・赤いか甲南漬・雲丹 日本人は古来より、陰陽道の考え方から、偶数よりも奇数を好んできた。三歳「髪置きの儀」・五歳「袴着の儀」・七歳「帯解の儀」の由来する七五三のお祝いはその流れ。 日本料理の世界でも、奇数が基本。たとえば刺身は三,五,七切れに盛り付けます。本膳料理の膳の数は、七・五・三となる。とりわけ奇数のなかでも「五」が大切な数字だった 「五味(甘味・酸味・塩味(鹹)苦味・辛味)」(中国の五行説)は日本人特有の味覚をあらわし、「五色(青・黄・赤・白・黒)」は盛り付けの基本だった。季節ごとに、これらを統合して、旬の食材を見栄え良く、栄養がとれるよう、バランスを整えていく。このように、日本料理はシンプルに見えるが、手間をかけ、幾重にも味を織り込んでいく                                   腕(唐墨餅・蕪みぞれ仕立て)                    

陰陽融合—萌芽していく癸卯年、伏見町栫山をよろしくお願いいたします

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  朝の朝陽と夕の夕陽は、 1 年 365 日、同じ景色はない 夜のしじまの朝陽が湖上と山崚を刻々と変えるグラデーションの夜明けの空も、昼の喧騒から水平線に夕陽が落ちていくなか都市を照り輝かせる空も、一日たりとも同じ情景はない。月から太陽に入れ替わる、太陽から月に入れ替わる瞬間は毎日つづく。陰陽融合という 「陰陽融合」は、中国の易経の言葉。太陽が陽であれば、月は陰。集中が陽であれば、分散は陰。リアルが陽であれば、オンラインは陰。陰陽は昼と夜の間に線が引かれていないように、対立しているようでありながら、融合しあって、決して離れない。陽は陰があってこそ、陰は陽があってこそ、ひとつとなる 陰陽融合は、物事そのもの。陰と陽は常に変化して、たがいに増えたり減ったり(此生彼長)、たがいに競争しながら成長する(相生相長)。どちらかが選択されるのではなく、どちらも存在して、互いが成長していく 伏見町栫山は、この陰陽融合の料理を心がける。一日たりとも同じ料理はない。陰の食材と陽の食材、季節の食材を融合させて、旬の食材を融合させて、一日一日と、洗練しつづけている 新たな年の始まりを迎えるお節料理は、1300年前の奈良時代に、中国から伝来された節の節目を祝う「節」の文化にもとづく、宮中の宴の「節会(せつえ)」のお祝料理「節供(せちえ)」が起源。日本人は季節の節目ごとの行事を大事にして料理で祝ってきた。そのなかでも新年を祝う節句、お正月の料理「御節供(おせつく)」が広がるなか、略して「おせち」と呼ばれるようになり、正月を祝う料理となった 2023年の干支は、「癸卯(みずのと・う)」。干支は中国の「陰陽五行思想」を礎にした 60 年周期で循環する暦で、「癸卯」は寒気が緩み、萌芽していく年。コロナ禍が3年間が過ぎ、新たな時代が始まりの年 伏見町栫山、日本料理かこみも、「癸卯」のはじまりの正月を祝う、縁起物を盛り込んだおせち料理をつくらせていただきました 次の時代にむけて萌芽していく癸卯年、伏見町栫山、日本料理かこみをよろしくお願いいたします

なにわの喰い味

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丹波黒豆シャンパン流し   京の着倒れ、江戸の吞み倒れ、大坂の食い倒れ 江戸時代、三都はそう呼ばれていた。大坂はもっと違う貌があった。大坂は万華鏡のような都市だった。水の都、商都大坂、天下の台所、芸術の都市、学問の都市、観光の都市、美食都市…。有名な言葉がある 「天下の貨(たから)七分は浪華にあり、 浪華の貨(たから)七分は船中にあり」 江戸時代の日本の富の7割が大坂にあり、大坂の富の7割は船のなかにあった…江戸後期の儒家である広瀬旭荘が「九桂草堂随筆」に書いた、江戸時代の大坂を象徴する言葉 出船千艘 入船千艘 という言葉も有名だった。江戸時代に河村瑞賢が西回り航路を開拓した。蝦夷地から日本海の東北・北陸・山陰の湊を経て、瀬戸内海から中・四国を通って、大坂をつなぐ物流の大動脈を構築した。北前船が海上を走って、多くの寄港地をつなぎ、物々交換する諸国物産回しをした 大坂への上り船。各藩の米が大坂にはこばれ、大坂で取引され換金された。米だけが運ばれたのではない。干しニシン、干し数の子、ニシン・イワシしめかす、塩ザケ、昆布、干しナマコ、干しアワビ、干しホタテ貝、材木、菜種、各地産品など、諸藩の産品が大坂に集められ、市がたった。堂島の米市、天満の青物市、雑喉場の魚市にヒト、モノが集められた。 1730 年に開設された堂島米会所では、世界初の先物取引がおこなわれた 半生かに刺し 大坂からの諸国への帰り船には、畿内の商品、酒、しょうゆ、塩、砂糖、木綿、衣類、なべ、かま、紙、薬、道具類、陶器、人形、化粧品、なわ・むしろなどを詰め込みれて、諸国に運ばれた この物流ネットワークが、「天下の台所」大坂をつくりあげた。商業都市大坂にとって、商談の場はなによりも重要だった。料理を食べながらの商談。大坂の商いは、人と人との信用にもとづいた口約束が多く、商談は商店のなかだけでなく、茶屋や料理店で食をともにしながら、まとまれば、手打ちとなった。手打ち酒をかわした。食による接待は、大坂の商いにとって重要な機能だった 江戸時代の三都に、人、物が集まった。トラックも冷蔵・冷凍庫もガス・電気の調理器具も、保管技術もなかった江戸時代は、集められる食材のちがいが、地域ごとの食を変えた 焼きガニ 江戸は海に近かったので「割」が中心、京は内陸なので「烹」中心。天下の台所として食材が